おーい、えび。

えびのたわごと

【自戒】ファスト情報社会と単純化する僕たちの思考

マクドナルドや吉野家のようなファストフードはどこに行っても人気がある。「安い、早い、旨い」が彼らの代名詞だ。

 

これをもじって僕が勝手に「ファスト情報」と呼んでいるものがある。

 

身近な例でいえば、ツイッターやインスタグラムのストーリーであったり、TikTokYoutubeに流れてくるショート動画などがその典型例といえる。

 

要するに、脳が簡単に処理できて、短時間で楽しめる、安価な(あるいは無料の)情報のことをファスト情報と呼んでいるのだ。

 

こうした情報は、大勢の人に人気があり、短い期間のうちに大量消費され、ときには中毒になる人も出てくるという点で、ファストフードとよく似ている。

 

僕は、そんなファスト情報を絶えず大量に消費していくことによって、我々の思考、ひいてはその集合体である世論が極端に単純化されていってはいないかということを危惧している。

 

 

この懸念を深堀りする前提として書いておくべきことがある。それは、基本的にファスト情報は内容が非常に簡潔で、白黒がはっきりとしているということだ。

 

ショート動画やツイッターでバズるコンテンツというのは、趣旨(企画)がすぐに理解できて、きれいなオチ(結論)に繋がるよう仕立てられている。

 

それによって、短時間の動画や短い文章でも多くの人が納得感を得られる内容となり、脳がストレスなく情報を咀嚼することができるのだ。

 

逆に、じっくり考える必要があったり、納得できるオチがない情報は短時間のコンテンツにはしづらい。具体的には書籍や新聞記事、長尺での解説動画といったものはファスト情報の対局にあり、「スロー情報」とでもいうべきだろう。

 

しかし、食事をすべてファストフードで済ませると栄養的に偏ってしまうのと同様に、ファスト情報ばかりを取り込むことには問題がありそうだ。

 

 

僕の懸念は、ファスト情報に慣れすぎると複雑な情報を取り込む力が鈍るのではないかということだ。

 

例えば、ここ数年で急に目にすることが多くなった言葉の1つに「論破」というのがある。バカな主張に対して徹底的に反論してこき下ろすというお決まりの流れがあり、ショート動画やツイートなどのファスト情報媒体と相性が良い。

 

確かに一種の爽快さがあるのも分かる。だが、僕はあれがとても嫌いだ。

 

それは、いつの間にか論破を応援する側に立っている自分に気づいて気持ち悪いからだ。

 

論破される側には、実は再反論するだけの材料があるかもしれない。あるいは単に口喧嘩が苦手なだけで、よく話を聞いてみれば実は立派な主張があったのかもしれない。

 

しかし、バカな主張→論破という美しい(?)ストーリーに加工されたファスト情報において、そうした消費者ののどにつっかえる小骨はきれいに切り落とされる。

 

そして、消化しやすいファスト情報ばかりを情報源にして過ごしていくうち、しまいには世の中の出来事が単純な二項対立ばかりだと錯覚してしまわないだろうか、ということを僕は恐れている。

 

イスラエルとガザの戦争のように、世の中にある対立は、解決が困難なものほど事情が複雑だ。

 

そうした複雑な、そして重要な対立構造にぶつかった時に、自分にはよく分からないから知らなくていいや、と無気力な反応になってしまうのではないかと心配になる。

 

あるいは、白か黒かの二択でしか物事の解決策を模索できないような思考回路になってしまわないか。多くの争いごとは白でも黒でもなく、その間の灰色が落としどころになるのにも関わらず。

 

タイトルには自分だけに限ったことではないという期待(?)を込めて僕”たち”と書いたが、要は僕自身が、そのような思考に知らず知らず陥り始めているのを自覚したという話だ。

 

これを自覚しないようになった時がより一層怖いので、忘れないうちに記事として残しておく。