おーい、えび。

えびのたわごと

昨日聞いたちょっといい話

昨日知り合ったスイス出身の方に聞いたちょっといい話。

 

その方は地質学を研究されていて、日本をフィールドに活動しているそう。仕事柄、辺鄙な田舎で調査をすることが多いため、少しずつ日本語も覚えていっているらしい。

 

仲間の日本人研究者が通訳して助けてくれることもあるが、ご自身でも日本語でコミュニケーションする機会がなんやかんやあるそうだ。

 

標準語の東京ならまだマシだが、地方は訛りが色々あって大変そうだ。さぞ会話にも苦労されるだろうと思い、そう尋ねてみた。

 

するとその方曰く、

 

「確かに田舎に行くと相手の言うことが聞き取れないことはよくある。けど、都会と違って誰も急いでいないから、コミュニケーションを取る時間はたっぷりあるんだ。分からないことは聞き返せるし、翻訳アプリを使ったりすれば何とでもなるよ。HAHAHA」

 

とのこと。なるほどなあ、と思った。

 

確かに、分からなければもう一度聞けばいい。ぺこぱのツッコミにありそうな優しい世界だ。

 

大都会ロンドンではそのような考えを持って生きている人は恐ろしく少ない。これほど英語圏以外から人が流入しているにも関わらず、英語の苦手な人は存在しないかのごとく日常は進んでいってしまう。留学生が学生の半分を占めている大学ですらそうだ。

 

東京はどうだろう。日本語を話す外国人はまだ少数派だろうから、今のところは暖かい目で見られているだろうか。

 

もし将来、多くの外国人学生や労働者が入ってきて、日本語を話す人が増えてきても、ノンネイティブ話者に寛容な、心に余裕のある社会であってほしいと思う。

財布がいらない国、イギリス

「ジョンは10ポンド札を持ってコンビニに行き、牛乳2ポンドを2本買いました。お釣りはいくらでしょうか?」

 

イギリスの小学生にこういう問題を出すと、「え、現金で払うの?」と言われそうな気がする。

 

筆者が暮らすイギリス・ロンドンでは、日本と比較にならないほどクレジット(デビット)カード支払いが普及している。2年以上暮らしてきたが、今までに現金払いをしたのはコインランドリー用の硬貨を用意するために缶ジュースを買った数回だけだ。

 

日本を出国する際に念のため用意した2万円分のポンド札は未だに使いきらずに残っていし、減る気配もない。

 

コンビニやスーパーでは現金で支払いも当然できるが、レストランやカフェ、バスなどの交通機関ではなんとカード払いしか受け付けていない現金お断りの場所もかなりある。

 

ロンドンのバスや地下鉄は基本的にクレカをタッチすることで乗ることができ、金額は後で自動的に計算されて請求される。アップルペイを使うようになってからは財布を持ち歩く習慣すらなくなった。

 

こうしたカード文化はイギリスに限らず、ヨーロッパ全体に広く言えることなのかもしれない。旅行で訪れたスコットランド、ベルギー、ポルトガルスウェーデン、スイスではどれも財布を出した記憶がない。

 

 

日本ではクレジットカードだけでなく電子マネー(何たらペイ系)もかなり豊富な選択肢があるが、乱立しすぎて統一感がなく、逆に使いづらい。なぜこんなに違いがあるのだろうか。

 

気になって調べてみると、まずヨーロッパではクレジットカードの手数料が低く、お店側がカード支払いを導入するハードルが低くなっているようだ。鉄道などの公共インフラがカード支払いしかできないとなれば利用者は増え、お店側も導入の必要性がさらに高まり、、、という感じで好循環があったのではないかと思われる。

 

日本はというと、カード手数料が欧米より高いので導入ハードルが高いというのがまず1点。そして、電子マネーに関してはこちらの記事にあったが、政府が市場に介入しないこともあってか、様々な会社が競争に飛び込みやすくなっているようだ。

どうして日本は電子マネーが乱立するのか?|Luigi Mario

 

ここまで電子マネーが乱立しているのに各社が事業継続できていることがまず驚きだ。今から政府が1社をゴリ押しすることは公平性の点からみて難しいだろうし、自然淘汰を待つしかないのだろう。

 

 

イギリス人のジョンくんは冒頭の「お釣り」問題について、「カードで払うからお釣りは出ない」と答えることだろう。

 

日本人の太郎くんは、「まずお店がどの支払い方法を受け付けているのか(現金か、カードか、PayPayか、Edyか、、、)を確認し、次に自分が持っている支払い方法ごとに、ポイント還元の割合を踏まえて実質的なお釣りを計算する。」という極めて高度な宿題に取り組まなければならない。

 

日本人が計算が得意になる理由がまた1つ明らかになった。

アニメを観ているうちにアメリカ大統領が決まっていた

筆者が前前前期のアニメ、『ダンジョン飯』に遅ればせながらドはまりしていた頃、世の中ではアメリカの大統領にトランプが返り咲いていた。

 

僕の住むイギリスをはじめとするヨーロッパ界隈では、トランプが大統領になることに対する動揺が日本よりも大きいように見える。

 

BBCはトランプ当選後、イギリスの政治家のほとんどがネガティブに事実を受け止めていると赤裸々に書いた。

 

ドイツ版のNHKにあたる国営メディアDWでも、「トランプが当選するケースは正直に言ってあまり準備してこなかった」とコメンテーターが言っていて、ちょっと驚いたものだ。

 

 

僕個人の完全な主観だが、トランプ当選に対する受け止め方の違いはお国柄が出ているようで面白い。

 

日本の場合、「大統領はこうあるべき!」といった主義・主張よりも、選挙戦前の当選確率に基づいて淡々とどちらが勝つかを見守っていたようにも見える。バイデン⇒トランプの影響が経済には少なからずあるとはいえ、国防や移民などの政治分野では比較的小さいということもその一因ではあるだろう。

 

ヨーロッパは理想が先行してしまったことで、トランプという問題児の立ち位置を客観的に見ることが難しかったようだ。ウクライナや中東とも地理的に近くて安全保障により影響を受けるし、移民政策で火種を抱える国も多い。だからこそ、自分たちとイデオロギー的に近いハリス氏が勝ってほしい、いや勝ってくれねば自分たちのやっていることも否定される、という感覚があったのかもしれない。

 

そして、アメリカの場合。やはりアメリカは全く価値観の違う国なんだなと感じた。

もし日本で総理候補があれほどの批判や裁判を抱えていれば、そもそも総裁選に立候補する前に叩かれて潰されているだろう。

 

しかし、アメリカではトランプのマイナス面に目をつぶり、自分が重視している政策(たとえば移民や中絶)にとって有利であればそちらに迷いなく投票できる。

 

日本が減点法の国だとすると、アメリカは加点法で人を評価する。人の失敗や欠点は自分には関係ない。そんな感じのマインドが見えたような気がした。

 

まあ筆者のような庶民には『ダンジョン飯』と同じくらい遠い世界の話だ。マンガも良かったが、アニメも非常に良い感じなので未視聴の方は是非ご覧いただければ幸いである。

官僚から社会人博士への道 vol.20 ~You、査読しちゃいなよ~

先日、光栄なことに論文の査読をする機会をいただいた。

筆者は博士課程の学生をしている身分なので、最初にメールが届いたときは(自分なんかに査読依頼が来るなんて!)と驚いた。しかも自分の分野ではけっこう大手の専門誌からだった。ひとまず指導教官に相談してみたところ、「3点確認してくれれば構へんで」とのこと。

査読を受ける条件

1点目は分かりやすくて、論文の内容を評価する専門性に自信があるかどうかということ。なお、査読を依頼された段階のメールには論文の原稿は添付されておらず、タイトルと抄録(アブスト)しか判断材料がないので、大体いけるんじゃないか、といった程度の見切り発車をするしかなかった。

 

2点目は、その論文の著者たちや論文の内容に対して利益相反がないかということ。例えば、論文の著者が自分の研究プロジェクトに密接に携わっているだとか、論文が公表されることによって金銭的な恩恵を受ける立場にあるとか、要するに忖度して甘く(あるいは不当に厳しく)審査したくなりそうな関係があるときはそれを隠してはいけない。

 

3点目は、依頼をしてきた雑誌がいわゆるハゲタカジャーナルではないかということ。もしそうなら、最悪の場合、自分の審査結果によらず、科学的に正しくない論文が採択されてしまうかもしれない。

 

僕の場合、上記3点がクリアできてしまったので、これは一丁やってみますか、という話になった。

 

 

さて、いよいよ編集者から原稿が送られてきて査読がスタートしたわけだが、読み始める前に注意すべき点が1つある。それは、査読中の原稿の内容について他の誰かに相談してはいけないということだ。

 

査読者には守秘義務があるので、もしどうしても論文の内容を誰かに相談しなければならない場合は事前に編集者と著者に了解を取らなければならない。

 

生理学や医学分野のようにノーベル賞を狙って競争を繰り広げているような分野では実験上の工夫1つでさえ重要な企業秘密にあたるのである。*1

 

 

まだ世に出ていない論文を読むのはとてもワクワクする。しかし、査読である以上、どんなことをチェックしなければいけないのかを意識して批判的に読まなければならない。世の中便利になったもので、波多江崇(2014)論文査読のポイント

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsp/33/2/33_98/_pdf/-char/ja

という文献にあるチェックリスト8項目がとても役に立った。以下、引用する。

 

① 論文の内容が学会の領域に合致しているか?

② タイトルおよび本文がストーリーとして成立しているか?

③ 要旨は本文の内容を反映しているか?

④ 諸言に研究の背景と目的が明記されているか?

⑤ 適切に文献が引用されているか?

⑥ 方法は目的に対して適切か?

⑦ 方法に記載された内容が、すべて結果に記載されているか?  結果に記載されている内容が、すべて方法に記載されているか?

⑧ 考察が飛躍しすぎていないか?

 

各項目の説明は原典を御覧いただくとして、僕が実際にこのチェックリストを試してみた感想だが、驚くほど多くの項目がひっかかった。僕が査読した論文は博士課程の学生が筆頭著者で、率直にいってアカデミック・ライティングの基礎的な部分に多くツッコミを入れざるを得ないレベルだった。責任著者は超大御所の教授だったが、超多忙な人でもあるので、きっとまともに読んでいないのだろうな、という研究室事情も透けて見えた。

 

内容としてはなかなか面白いし、自分の研究テーマにも役立ちそうなデータも詰まっているのだが、方法論と結果の示し方がかなり粗いため、正しい分析が行われているかが判断しづらい。英語を読むのに時間がかかるということもあって丸一週間ほどをたっぷり費やした後、僕としては期待も込めて大幅修正(Major Revision)という判断を下させてもらった。

 

 

1か月ほどして、僕以外の査読者3名の査読結果をすべて総合した判定が編集者から送られてきた。他の査読者も僕と同じく「大幅修正」の評価であった。

 

他の査読者が自分と同じことを指摘していたので、読み方が間違っていなかったことに正直ホッとした。また、僕が何となくモヤモヤしながらもその理由を言語化できず流していた懸念についても的確に指摘している人がいて、なるほどな~と勉強にもなった。

 

本来であれば、「大幅修正」を踏まえて論文の著者が再度原稿を書き直し、再度査読が行われるはずだったが、残念ながら今回の著者は諦めて原稿を取り下げてしまったので、それ以上の査読をすることはなく、僕の初めての査読もそこで終了した。

 

 

査読は報酬ゼロのボランティア活動である。正確に言うと、その出版社から次回論文を出すときに使える投稿料の割引券などはもらえるが、実質的には知的なワクワク感が唯一の報酬と言ってもいい。

 

今回、自分が査読する側に回ってみて、かなり時間と労力を要する作業であることを認識できた。出版社は筆者から論文1本あたり数十万円をもらって掲載してもらっていることを考えると、やりがい搾取もいいところだなと思わなくもない。

 

査読の作業を報酬制にすることによるメリット・デメリットはこちらの記事が非常に面白いので興味のある方は是非。

CA2048 – 動向レビュー:査読は無償であるべきか? / 佐藤 翔 | カレントアウェアネス・ポータル

 

ただ、博士学生として今後も査読論文を投稿する僕自身からすると、論文を審査する側の作業や気持ちをひと通り体験できたのが非常に有意義であった。アカデミック・ライティングの基本を丁寧になぞるだけでも査読者が持つ印象はきっと随分良くなるだろうし、読者に余計な負担をかけずに済むので、より有益なアドバイスがもらいやすくなりそうだ。

 

楽な作業ではないが、機会があれば是非挑戦していただければと思う。

*1:とはいえ、査読をしている間に情報が漏れたという話はいたるところで聞く。そもそも専門領域を査読できるのはその専門家だけなので、必然的に査読依頼が行く先はライバル研究者だったりする。僕の知り合いも、長年不明だった現象を解明した論文を投稿したところ、査読期間を不自然に引き延ばされ、その間に同じ実験内容を行った海外の他大学が先に公表するという事例に遭っている。

官僚から社会人博士への道 vol.19 ~2年目の終わり、3年目の夢~

この記事は官僚である筆者が自主休職して社会人博士を目指す様子をお届けする雑記帳である。

 

この9月で博士課程の2年目が終わろうとしている。

 

未だにイギリスには慣れないが、身の回りのことを振り返る余裕くらいはでてきた。そこで、博士課程の2年間にできたこと、できなかったことを考えてみたい。

 

 

まず、できたことから。

 

1つは博士課程の肝と言える研究活動。これについては予定を上回るペースで進められている。

 

正直、ケニアのスラムの調査がもっと苦戦すると思っていた。リアル流星街みたいな環境で、スワヒリ語も話せない僕がどうやって調査をすればよいのか、始めてみるまでは想像もつかない世界ではあった。

(出典:HUNTER×HUNTER32巻/冨樫義博/集英社

しかし、実際は現地の協力者が優秀だったおかげで、ジンのように許可、手段、資格、契約に苦戦することなど皆無であった。多少苦労したことと言えば、お金のやりくりと、現地で雇った人たちの研修に手間取ったことぐらいだった。

 

と言いつつ、許可を取るのに1年くらいかかった時は正直驚いたが(大学院の制度上、準備を入念に審査されるためどうしようもなかった)。

 

だが、調査自体は半年くらいで必要なデータは集めることができた。調査のかたわら、論文もちまちまと書き続けていたことが幸いし、出版できた論文がこれまでに1本、原稿を書き上げて査読に出す前のものが2本。なかなか悪くない進捗といえそうだ。

 

 

次に、できなかったことについて。

 

これは2つあって、1つが英語の勉強、1つが友達づくりだ。

 

元々、イギリスでネイティブの友達ができれば英語力もそのうち付いてくるでしょ、と一石二鳥を企てていたのだが、そこには大きな誤算があった。

 

まず、イギリスの博士課程では授業がなく、日本の研究室のような皆が集まる場所もないため、そもそも人と会話する機会がめったになかったという点。そして、僕自身のコミュ力がそもそもゴミだったという点である。

 

たまーに何かの集まりでネイティブの中に放り込まれることがあるが、彼らの会話スピードが速すぎてきつい

数日は英語のやる気が上がる

使う機会がしばらくないため徐々にモチベ低下

(1番上に戻る)

 

この繰り返しを延々としているうちに刺激への耐性が付いてしまい、すっかり英語無精になってしまった。

 

 

以上の振り返りをしたところで、初心を思い出してみることにしたい。

 

僕が入学したとき、大学から博士課程の皆さまへ、というタイトルで10のアドバイスがあった。それがこちらだ。

ooiebi.hatenablog.jp

  1. 指導教官からの教えをうまく活用すべし
  2. 博論の執筆は1年目のなるべく早い時期から始めるべし
  3. 現実的な計画を立てるべし
  4. 計画は随時見直すべし
  5. 集中力を削ぐもの(Distraction)を遠ざけるべし
  6. 仕事のように学業をすべし
  7. 自らの体調やメンタルをいたわるべし
  8. ちゃんと助けを求めるべし
  9. 我慢強く取り組むべし
  10. 好奇心を持って臨むべし(専門外の分野や、研究以外の活動にも広く目を向けよう)

できたような、できてないような、といったところだが、6番の「仕事のように学業すべし」については耳が痛い。間違いなくそうした方がいいが、自分をコントロールする力が試されるだろう()。すいません、やります。

 

10番の「好奇心をもって臨むべし」に関しては原点にして頂点、的な指摘だなあと思う。実は、好奇心がくすぐられていることはある。スラムの課題への解決策が研究を通じて具体的なアイデアとして固まってきているのだが、それをどう実現できるだろうかということだ。

 

極論をいうと、博論を出して通りさえすれば博士号は取れてしまう。しかし、せっかくお金もかけて研究して発見された成果がどれほど世の中の役に立ってきただろうか。

 

せっかくケニアの人たちとご縁ができて、彼らの暮らしを改善するようなアイデアが研究を通じて出せているのに、これを図書館の紙束のままで眠らせておくのは大変もったいないという気持ちはある。

 

幸い、論文数に関してはクリアされつつあるので、余裕も比較的ある方だ。ということで、3年目は博論はもちろんだが、研究活動を1歩はみ出して「道草を楽しむ」ことも目標の1つに掲げようと思う。

官僚から社会人博士への道 vol.18 ~悪夢再び、アリvs人間~

この記事は官僚である筆者が自主休職して社会人博士を目指す様子をお届けする雑記帳である。

 

さて、イギリスに引越してきてすぐの頃、こんな記事を書いた。

ooiebi.hatenablog.jp

 

筆者は当時、ルートンというロンドン郊外にある比較的新しい学生寮に住んでいた。しかし、引越した直後から、シルバーフィッシュ*1やらコバエやらが異常に多く、日本の衛生状態に慣れ切っていた僕はノイローゼ寸前のところまで追い詰められた。(毎朝、顔を洗いに行くとシルバーフィッシュの●体が洗面所に転がっている憂鬱をお分かりいただけるだろうか。)

 

しばらくその学生寮で暮らした後、1年ほど前にロンドン近郊に引っ越してきたわけであるが、実はここでも虫との果て無きバトルは続いていた。

 

 

新しい戦場となったフラット(集合住宅)は、一見した限り、日本にもありそうな綺麗なお部屋であった。入居前の内見ではバスルームがかすかに下水臭いかな?と思わなくもなかったが、パイプや設備はピカピカで真新しい。

 

一般論として、イギリスでは築何十年や100年越えの物件はざらであり、部屋全体がちょっと臭かったり、天井に水漏れの形跡があったり、柱の継ぎ目からアリさんがこんにちはしていたりというのが通常のクオリティである。その平均からすれば新居は抜群のキレイさに見えた。

 

6畳間、風呂あり、キッチン無し、ベランダ無しでお家賃はなんと月20万円(1,100£)。東京ならぼったくりもいいところだが、ロンドンではこれでも安めの家賃である。何より、通りすがりの人に生卵を投げつけられるくらい治安最悪のルートンに比べて、新居の周りの治安は最高だった。僕は迷いなく契約をした。

 

 

新居は日本でいう1階にあり、入居早々に気づいたのは窓からの虫の侵入が結構あるということだった。残念ながら、イギリスには網戸という文明の利器を備えた家など存在しない。窓を開けている限り虫は素通りである。だが、部屋にはクーラーもないし、洗濯物を干そうにもベランダがないので部屋干しするしかない。

 

よって、窓を開けなければ不快で生活自体がままならない。しかたないので、マジックテープ式の虫よけネットを窓に設置してしのいでいた。

 

 

窓を網戸化したことで快適さはかなり上がったが、春が来たころ新しい事実に気づいた。

 

「最近アリをよく見かけるな……しかも明らかに網戸を通り抜けられないサイズ感のがいるような……?」

 

実は侵入者は2種類いた。1つは日本でも見るような極小サイズのアリで、網戸ももしかしたらすり抜けるくらいのやつ。もう1つはハネがついていて2センチほどのハチのような見た目をした虫で、調べるとこいつもアリだった。いずれも温かくなると活動的になるらしい(※何の虫か特定するまでの検索が地獄だったのは言うまでもない)。

 

アリはイギリスで最もメジャーな害虫の1つなので、スーパーでもアリ用スプレーを売っていたりする。早速僕もこれを買い、奴らの通り道に散布したが、あまり減っている形跡がない。ただ、目にする機会もまだそこまで多くなかったので、我慢はできていた。

 

そんなある日、夜中にトイレに行ったとき、事件が起こった。

 

ふとドアを開けると、例のどでかい羽つきアリたちが数匹いるではないか。明らかに偶然ではない。というかキモすぎる。咄嗟にスプレーを取り、バスルーム全体にバルサン並みに散布して逃げるようにベッドに戻った。

 

翌朝。バスルームには事切れた羽アリと小型アリたちがいっぱいに落ちていた。明らかにどこかに巣がある。虫嫌いの僕は絶望とキモさで震え上がりながら掃除をしつつ観察をした。すると、どうやらトイレの下に2ミリほどの隙間があって、そこからアリどもが上がってきている。おそらく、トイレのかすかな下水臭もこの隙間が原因と思われた。

 

 

巣のありかは分かったので、連日スプレーで毒攻めを始めた。いっそ隙間をすべて塞ぎたかったが、隙間の上が配管などのボックスでそれなりに大きい空間になっている。隙間を塞いで、ボックス内がでかい羽アリの●体だらけになることを想像するとそれだけで失神しそうになる。とりあえず毒攻めで絶滅してくれることを祈った。

 

 

だが、結果は芳しくなかった。隙間が小さすぎるせいか、うまくスプレーが入らず、こちら側に出てきたアリだけにしか効いていない。それでも小型アリは絶滅しつつあるが、逆に羽アリは増えている気配まである。

 

 

最後の手段、シリコン樹脂などで隙間を塞ぎきるか。。。しかし、たぶん大家に確認を取らないといけないし、きっと自腹になる。家の契約更新も近いのに、アリがいるって言ったら大々的に駆除代を請求されるかもしれない。そもそも家の中になんでこんなに虫おんねん。家建てるの下手くそすぎやろ。隙間なく建てろやボケが!……などと、様々な思いが胸に浮かんでは消えた。そして、ついに結論がでた。

 

 

 

 

 

………………まあ…引っ越すか……。

 

 

 

という訳で、イギリスの2物件めの暮らし、あるいは第2次虫戦争はあっけない幕切れを迎えたのであった。

 

次章、3件目の物件に乞うご期待……

 

 

*1:キモすぎるので検索しないことを強くおススメする

作品づくりの才能=少ないインプットで大きな価値を生み出すチカラ

最近気づいたことがある。

 

ブログでも、論文でも、仕事の報告書でも、何かを書こうとする時には最初にネタを仕入れる必要があるということだ。

 

どんなにすごい人でも自分でゼロからすべてを創造することはできない。ブログであれば日常の暮らしで感じた外部からの刺激がいるし、論文であれば新しい発見が必要である。

 

ゼロから作品を生み出しているように見えたとしても、それは実はその人が今までの人生で取り込んだ外部からの情報が必ず元になっている。つまり、知識や経験を自分の中にまずインプットすることが創作のスタート地点なのだと。

 

続けてさらに考えた。

 

創作の分野で天才と言われている人たちは、自分が取り込んだ外部からの情報(インプット)に対して、新たに生み出すものの価値(アウトプット)が非常に大きな人なのではないか。

 

式にするならこんな感じ。

(作品づくりの才能)=(アウトプット)÷(インプット)

 

価値が100の作品を作り出す場合、50とか100の下調べや元ネタを必要とする人はたくさん努力がいる人ということになり、秀才タイプということになる。

 

同じ価値100の作品を1のインプットから閃いて作れてしまう人は天才と呼ばれるかもしれない。1作品の価値がそれほど高くなくても、単位時間あたりに生み出せる価値の合計が多い人は効率の面での天才と呼べるかもしれない。

 

 

 

上の式を書き換えるとこうなる。

(アウトプット)=(作品づくりの才能)×(インプット)

 

左辺のアウトプット、つまり創作物の価値を高める方法は 1.才能を磨く、2.外部からのインプットを増やす、のどちらかである。インプットを無限に増やすことができれば、仮に才能がものすごく小さくてもアウトプットの価値はどこまでも高められるように見える。しかし、創作物の価値が伸びずに頭打ちになる人が多いところを見ると、現実はここまで簡単な話ではないということだろう。

 

とはいえ、アウトプットに行き詰った才能の乏しい人間が、インプットなしに記事を書くと間違いなく駄文が生まれる。この記事はその事実を雄弁に示しているのではないかと思う。