おーい、えび。

えびのたわごと

日本人は短い旅行を好むらしい

僕が大好きな本の1つに沢木耕太郎の『深夜特急』シリーズがある。

www.shinchosha.co.jp

著者の沢木耕太郎氏が香港から乗り合いバスを使ってユーラシア大陸を横断し、1年ほどかけて西の果てのヨーロッパまで旅をする紀行文だ。

 

この本は僕の中の「旅行に対する固定観念」を壊してくれた本でもある。

 

元々自分の中で旅行といえば、週末に一泊か二泊して、観光地や名物を食べるというものだった。

 

親がそういうのが好きで、小学生の頃はよく連れていってもらったが、中学生くらいになると何となく億劫になって、部活があるとか何とか言い訳を付けて、家族の旅行にはついて行かなくなった。

 

深夜特急を読んだのは大学生の頃だったと思う。

 

深夜特急ファンの多くがそうだと思うが、バックパッカーというある種リスクを伴う酔狂な旅の在り方に惹かれた。加えて、僕が特にすごいと感じたのはその期間の長さである。

 

何といってもユーラシア大陸はでかい。バスで旅をする以上、とにかく時間がかかるし、沢木氏にはいつまでに帰らないといけないという期限もない。お金が続く限り旅は続くのだ。

 

僕が知っている旅行というのは帰るまでの予定が大方決まっているもので、沢木氏のそれとはまったく異質だった。当時スマホもネットもない”真の”異国の地で、帰る日すら決まっていない旅を続けるというのは想像もできない心細さや不安があっただろう。

 

深夜特急という紀行文は、読めば分かるが、巻が進むにつれて旅の気怠さとでもいうべき独特の物憂げな心理状態が濃くなっていく。なので僕は深夜特急の1巻が一番好きなのだが、それは置いておいて、長く旅をするという新しい価値観を知るきっかけになった小説である。

 

僕の場合、沢木氏のようなバックパッカーになる勇気は出なかった。その代わり、研究・調査のためという名目で、ベトナムやケニアなどいくつかの途上国に長期滞在してきた。

 

長期滞在する先で現地の言葉を少しずつ覚える楽しみがあるし、現地人が普段使う食堂や市場を使うことでより深くその地域のことを知るのも楽しい。どちらも短期間の旅行ではなかなか難しいことだ。

 

日本人は世界で一番休暇の期間が短いらしい*1が、この夏休みに深夜特急を読んで憧れた若者もいるだろう。よい旅をしてほしいものだ。

 

 

ぎっくり腰 in ロンドン

今週のお題「ケガの思い出」

 

イギリスに留学していた際に英語で表現するのが難しかったことの1つが「痛み」についての説明だった。

 

中学校で習う I have a headache. (頭が痛い)のような表現に始まり、

 

I have a back pain. (背中が痛い)

My leg hurts. (足が痛い)

など、たくさんの派生がある。

 

しかも、日本語の「キリキリ痛い(sharp pain)」や「しくしく痛む(dull pain)」のようなオノマトペは英語では直接対応する言葉がないので、毎度ググらなければならない。

 

イギリスは医者にかかるのは無料だったが、医者に英語で症状を説明するのが億劫で、ついに一度も病院には行かなかった。日本でも同じ悩みを抱えている外国人の方は多いのではないかと思う。

 

 

僕がロンドンで初めて危機に襲われたのはぎっくり腰になった時だった。

 

調査で一日中ロンドンを歩き周ったあと、カフェで一服して立ち上がろうとしたその時、突然歩けないほどの腰痛に襲われた。初めての経験だったが、これぞ世に聞くぎっくり腰だろうと思った。

 

その日は初めて直接お会いしたイギリス人の指導教官と一緒に街を歩き、一旦分かれた後、夜にパブで合流してビールでも飲むか、という話をしていた。だが、とても合流できそうにない。まずは現状を伝えなければ。

 

こういう時に困るのが言語の壁である。「ぎっくり腰」って英語でなんて言えばいいのだ。

 

ググってみたところ、I put my back out / I threw my back out. というのが一般的らしい。直訳すると、腰を投げ出してしまった、という感じだろうか。

 

さらに小洒落た?表現としては I got a witch's shot. (魔女の一撃を食らった)というらしい。おお、これはなんか使いこなせれば英語ができる人っぽいぞ、などとどうでもいいことを考えながら、とりあえず指導教官には英語で現状を伝えた。

 

すると指導教官からは

 

「Oh, gikkurigoshi desu! Take care!」と返ってきた。

 

ん?

 

gikkurigoshiは普通に「ぎっくり腰」で日本語だよな。

 

訳が分からないまま、その日はなんとか家にたどり着いた。

 

後日、なぜぎっくり腰などという日本語を知っているのか聞いてみたところ、実はその指導教官は3年ほど日本に英語教師として赴任していた経験があり、日本でぎっくり腰になったことがあったらしい。

 

なんという偶然。

 

そして、やはり身体の危機に直面したときに調べた外国語は忘れないようだ。これぞ怪我の功名というやつだろう。僕もwitch's shotという英語は多分一生忘れないと思う。

東京のちびっ子が自販機で水を買っていた話。もしくは給料が3千円上がった話

こないだ東京の下町にある公園で座って休憩をしていると、子ども達が10人くらいで遊びにやってきた。

 

しばらく眺めていると、小学校2~3年生くらいの男の子が自販機でミネラルウォーターを買った。

 

それを見ていて、  ん?? と思ったが、何に違和感があったかすぐ分からなかった。

 

家に帰って考えた結果、たぶんこうだろうと思い至った。

 

まず、自分が小学生のときはお小遣いも大してもらっていなかったので、友達と外に遊んでいるときに何か買うなんて発想がなかった。

 

それに、せっかく貴重なお小遣いを使うのに、味のないミネラルウォーターを買うという勿体ない使い方はまずしなかっただろう。自分ならジュースか炭酸だ。そもそも水であれば自分は公園の水道の蛇口から直接飲んでいたし。

 

あの子どもの精神年齢は見た目以上に高い。

 

 

まったく関係がないが、先日博士号を取得したことによってお給料が上がると聞かされた。

 

物価高な昨今、給料は少しでも高い方が嬉しい。

 

さて、いくら上げてくれるのかと確認したところ、月3千円アップだった。

 

月3万円じゃなくて、月3千円。年俸で3万6千円。

 

給料を上げてもらった立場として贅沢は言うべきではないが、あまりにささやかな昇給と言わざるを得ない。

 

筆者の職業は国家公務員である。少なくとも霞が関では博士号を持った官僚は大して歓迎されないらしい。

 

ちなみに僕が通ったイギリスの大学院では博士課程の1年間の学費は大体400万円だった。3年で1200万円。

 

国家公務員の給料アップ分でこの学費を回収するには少なくとも300年は働かないといけない。人生100年時代といえど、来来来世まで働いても間に合わない。

 

ちなみに月収3千円アップは日給に換算すると150円アップ。自販機でミネラルウォーターがギリギリ買えるくらいだ。良かった。のか?

 

YouTubeで投げ銭をした話

こないだ、初めてYouTubeで投げ銭をした。
 
スーパーサンクスという機能で、360円送った。金額の3割をGoogleがピンハネし、残りの7割を動画の投稿者が受け取ることができるので、手元に届いたのは250円くらいか。
 
僕が投げ銭をしたのは『うごめ紀』というユーチューバーで、虫やらキノコやらの生き物の調査動画を主にあげている方だ。登録者は72万人もいる。論文なども書かれているみたいなので多分(元?)研究者だろう。
https://www.youtube.com/@UgomekiMushi
 
 
海外の、それも直行便など飛んでいないド田舎にまで行き、現地の人と交流しつつ珍しい虫やキノコをハントされている。
 
こういう人がいるおかげで人類の知識の総量は今も増え続けているんだろうな。
 
すごい時間とお金を費やして撮った貴重な映像を面白おかしく動画にして無料で配信してくれるということは文字通り「有り難い」ことだと思って、わずかながら投げ銭をした次第である。

 
 
そういえば、昔筆者が住んでいたイギリスでは寄付の文化が日本よりも盛んだった。
 
大きな地下鉄の駅には必ず何かしらのパフォーマーがいて、バイオリンとか曲芸とかを披露していて、驚くことに通行人が結構な頻度でお金をあげていた。イギリスは電子決済の国なので、多くのパフォーマーはクレジットカードのタッチ決裁機も設置していて、僕なんかは「あのタッチ決裁で大金を引き落とされたらコワイな」くらいに思っていたけど、それにも寄付していく人は結構いた。
 
また、大英博物館みたいな公立の博物館や美術館はすべてタダだった。その代わり、建物の入口と出口には募金箱がたくさん設置してあった。思えばそこでもお金を出している人はよく見かけた。
 
今思うと、ああいう寄付の文化は日本でいうところの「推し活」の感覚なんじゃなかろうか。
 
日本で寄付というと、某テレビ番組のようなイメージがある。「私たちはこんな可哀そうな人たちや動物たちを救っているから、皆さんお金ください」と良心に訴えかけて、道徳とか倫理の押し売りみたいな胡散臭さがある。僕はそういう雰囲気に虫が好かないと感じてしまい、募金はほとんどしたことがない。
 
イギリスの寄付の文化はそうじゃなくって、もっと前向きな感じがする。こういう活動なら応援しがいがある、もっとやってほしい、といったポジティブな気持ちに突き動かされて皆やっていたように思う。
 
日本にも実はイギリス式の寄付の精神はちゃんとあって、それがYouTubeの推し活だったり、ふるさと納税みたいに、お金の流れる仕組みが社会の中に整備されだしたことで発揮されはじめているのかもしれない。

人間は哺乳類だった

人間は哺乳類である。

 

当たり前だろ何を今さら、と思うかもしれないが、普段あまり意識して哺乳類をやっている(?)人は少ない。

 

新生児が生まれてすぐ母乳を求める様子を見て、ああ人間はやっぱり哺乳類なんだなあという実感を初めて持った。

 

 

赤ん坊というのはよく泣く。

 

あまりに泣くので、自然界でこんな大声で泣いたら他の動物に襲われやすくなるから生存に不利なんじゃないかと思わずにはいられない。

 

調べてみたら、ゴリラやチンパンジーなどの霊長類の親戚たちは赤ん坊でも泣くことはしないらしい。

president.jp

 

そりゃあそうだよな。やはり人間の赤ん坊は特殊なのか。

 

ということは、赤ちゃんが大声で泣いてもそれなりの確率で生き残れるくらいには人間の防衛力が原始時代から高かったということだ。

 

人間の進化のことを考えると、原始人と令和を生きる我々との暮らしにはあらゆる面で違いがありすぎて、同じ生物である感覚が持てない。

 

令和の親たちも新生児のことは心配が尽きないが、原始時代のそれとはまったくレベルが違うだろう。

 

原始時代には病院もないし、エアコンもない。消毒なんて考えられないし、食料も安定して得られるか分からない。うまく母乳が出ない母親もいるはずだ。

 

僕はいつもそんなことを考えながら、暖房の効いた部屋で深夜にミルクをやっている。

変化の年

しばらくブログを更新していない間に子どもが生まれた。

 

新しい職場では部下もできて、人を使うことを覚える必要も出てきた。

 

そういう意味で今年は色々と変化の1年になるだろう。

 

変化に慣れていかなければならない。

 

それはそうと、新生児は大人には見えない何かが見えているようだ。

 

抱きかかえていると、自分の少し後ろのあたりを目で追う仕草をする。後ろには何もないのにだ。

 

蟲師』では蟲が見える人と見えない人がいる。

 

新生児はついこないだまで命の存在と不存在の境界にいた存在だし、そういう大人には見えないものが見えていても不思議だとは思わない。

ノーベル賞に地区予選はない

今年もノーベル賞の受賞者が発表された。日本人が2人も受賞したのも素晴らしいサプライズだった。

 

考えてみると、ノーベル賞というのは平和賞と文学賞を除くと、基本的には優れた論文や発明を世に出した研究者に対して贈られるものだ。

 

その意味で、ノーベル賞には地区予選というものがない。

 

なぜなら論文や発明というのは今の時代ネットに掲載され、その情報は一瞬で世界中に共有されるからだ。

 

スポーツのように厳しい試合を何度も勝ち抜いて積み上げた実績がなくても、研究者は1つ大発見をしてしまえば一躍ノーベル賞の候補になれる。

 

こう考えると研究者という職業はとても夢がある職業に思える。

 

ただ、それはある分野の研究者に限った話ではある。

 

ノーベル賞には物理学賞、医学・生理学賞、化学賞、経済学賞の4分野がある。どれほど素晴らしい研究を世に出しても、この4分野でなければノーベル賞は取れない。

 

これは結構残酷な現実だ。

 

研究者というのは基本的に自らの興味関心が原動力となって動いている。

 

たまたま自分の好きな分野がノーベル賞の守備範囲であったならその人は幸運だ。しかし、そうでなかったら?

 

毛ガニの毛はなんで生えているのか、とか、モアイ像はなぜ作られたのか、とか、そういったことに興味を持ってしまった知られざる天才たちがどれほど世の中にはいるのだろうか。