おーい、えび。

えびのたわごと

イギリス国内での引越しがウザしんどすぎた件

イギリス国内で引越しをしたのだが、関わった業者が全部ひどかった。

 

Man&Vanのサービス

まず、荷物の移動についてはMan&Vanサービスで荷物を運んでもらった。これは文字通り運転手付きの車を出してもらえるだけ(荷物を運ぶのは客側)というサービス。Adison Leeという大手の会社を使い、ロンドンまで40kmほどの移動で料金約200ポンド。

 

このドライバーだが、13:30にサービスを頼んだのに45分前の12:45にやってきた。こちとら退去前の最後の掃除をしていたのに、着いたからさっさと荷物を載せろという。

 

そっちが時間を勝手に早めたんだから無理だ、というと、こっちも忙しいんだから仕方ないだろと開き直ってくる。口論の末、いいから黙って待っとけと言い、15分で掃除とパッキングを終わらせる。

 

更に、これは自分のミスだが、Man&Vanのサービスは保険の関係で助手席には乗せてくれないことが判明した(某日本語ブログの情報を鵜呑みにしてよく調べなかったのが悪かった)。

 

引き取り先に人がいなければ運ばないと言うので、知人に無理を言って引き取りをお願いする傍ら、電車とタクシーを乗り継ぎ、大急ぎで新居に向かった。

 

新居の代理人

新居は10月末から1年間の期間固定で契約。日本でよくあるような1ルームで、バスルームは自分専用、キッチンと洗濯機は共用。光熱水費とWi-Fi代すべて込みで月々1,100ポンド(約198,000円)という感じ。

 

東京と比べるとかなり高いが、ロンドンの物価からすると安い方だと思う。

 

新居の契約手続きはすべて大家のエージェントである不動産会社とやりとりした。これも相当ストレスがたまった。というか、控えめに言ってクソだった。イギリスのエージェントは大家から雇われているので、露骨に大家寄りの立場なためだ。

 

契約書の案が送られてきた際、いくつか自分の新居にはそぐわない記載があったので、修正するように何度も依頼したが、エージェントは頑としてつっぱねてきた。おそらく、大家に契約書の修正を依頼するのは面倒だから、多少文章が変であっても住人側を丸め込んでしまった方が楽だ、という魂胆がありありと見えて正直うんざりした。こちらは2、3回メールの押し問答をした後、もう頑張っても無駄だと思い、必要な言質はメールで取って良しとすることにした。

 

入居日の時間帯もこちらが午後でお願いと言ったのを普通に無視し、大家の予定を勝手に優先して朝一にした挙句、勝手にその時間で確定させてしまうというクソっぷり。もはやいちいち驚かないが、プロ意識はゼロだった。

 

それでも都会は最高に快適

引越しに関わる業者はニトリもびっくりのお値段以下だったが、新居に越してこれたことは非常に良かった。

 

都心部までドアドア40分ほど。旧居が大学まで片道1時間半かかっていたのを考えるとかなり都心に近づいた感がある。

 

QoLが特に改善したのは治安の面だ。前に住んでいたルートン市はロンドンから電車で40~50分ほどの郊外だが、治安の面でかなり不安があった。日曜のうららかな昼間に車から生卵を投げつけられたこともある。アジア人が極めて少ないというのもあって目立つのもあり、日が暮れてから街歩きは危険なので、多くのお誘いを断らざるをえなかった。

 

旧居のアパートは光熱水費とネット代込みで月700ポンド。バス、キッチンが自分専用で、それなりに広い部屋に住めたのは良かった。ただ、留学中に人と関わる機会を逃してまで治安の微妙な郊外に住む意義って何よ、と思っていたところに、奨学金の増額の一報が飛び込んできたので、必然的に引越しという結論に至った。

 

退去前の掃除はしっかりと

引越し前にプロによる清掃を自費で入れないといけないのがイギリス流で、契約書にもその旨は明記してある。(End-of-tenancy cleaningで調べるとたくさんでてくる。)

 

しかし、僕の旧居はプロどころか、素人すら掃除をしていないくらい汚かったので、この契約条項はかなり眉唾だと思っていた。

 

実際、イギリス人に「業者の掃除ってみんな雇ってるの?」と聞いてみたところ、

「大家から業者を入れた証拠(領収書)を出せと言われていない限りは基本的に自力でするよー。雇うと高いし。」

ということだった。

 

ただ、入居前のインベントリチェックというものによって部屋の状態は写真付きで残されているので、その水準までは最低でも戻さないといけない。

 

旧アパートは僕が初めての日本人入居者だということで、後の?日本人のためにも自力ながらも結構丁寧に掃除をして出てきた。デポジットから掃除代が差っ引かれないかドキドキして見守っている。

 

補足:後日、デポジット700£のうち130£が諸経費として差っ引かれた。入居時よりもキレイにした自信があるが、以下の記事を読んだ限り、まあそんなもんかなと。

【繊細な問題】イギリスの賃貸契約の敷金全額返金が厳しくなっている。The UK RelocationJTECPC.CO.UK

イギリスのストライキについて思うこと

イギリスに住んでいると、毎月どころか毎週のように何らかのストライキに遭遇する。

 

しかも、そのストの影響が結構でかい。

 

地下鉄や鉄道であったり、医療従事者であったり、大学職員であったりと、どれも自分の生活に影響する業界がひっきりなしにストをする。

 

BBCによると、そんなストを支持している人はイギリス国民の60%にも上るそうだ。

www.bbc.com

 

 

僕はというと、申し訳ないがイギリスのストの多くは支持する気になれない。

 

というのも、イギリスのサービスが全般的に質がめちゃくちゃ低い(対日本比)ので、やるべきことをやってから言ってくれ、という気持ちが勝ってしまうためだ。

 

特に鉄道系。しょっちゅう遅れるくせに、遅延補償の払い戻しではいい加減なチェックでごねてくる。そんなサービスの質で月数回もストをやられたのでは、心も離れようというものだ。

 

ただ、同情したくなる業種もあるにはある。

 

公的医療(NHS)の看護師や救急車スタッフは過酷な労働条件で働いているということもニュースで耳にする。NHSにかかりたい人が何日~何週間も待たされるような現状なので、半分崩壊している制度だと思うし、これ以上スタッフが民間に流出しないよう、待遇を改善せよという主張は筋が通っているとも思う。

 

しかし、ただでさえ公的医療サービスが受けづらい状況にも関わらず、ストライキという形で労働条件を争うのは、保険料を支払っている側の人間からすると、勘弁してくれよ…という気になるのもまた事実だ。

 

 

日本では、僕のような公務員はそもそもストライキ権が与えられていない。公共性が高い職業がストを起こすと国民の生活に大きな影響が及ぶためだ。

 

看護師や救急車スタッフなどはまさに国民の命や健康に影響が及ぶ例だろう。(だからこそ、NHS看護師のストは106年前に制度が始まって以来初というのも頷ける。)

 

日本でストライキといえば、最近のそごう・西武労働組合によるものが記憶に新しい。

www.nhk.or.jp

 

このストの争点にはあまり関心がないが、ストという手段が執られたこと自体は興味深く見ていた。

 

上述したNHKの記事にもあるとおり、ストライキで雇用者と労働条件を争う現象は昨今の日本では非常に珍しくなっている。

 

その背景には”和を以て貴しとなす”文化が浸透しているというのもあるだろうし、そもそも日本は現状に変化を起こすということに対する抵抗が非常に強い国でもある。

 

だが、イギリスであまりに質の低いサービスを受けている僕としては、むしろ日本で高品質のサービス業を支えている人たちこそもっと高い賃金を要求する資格があるのではないかと思えてならない。

 

岸田政権は発足以来「賃上げ」を旗印にしているが、そもそも論で言えば賃上げとは政府が口出しする話ではなく、民間企業と労働者の間で交渉・合意されるべきテーマだ。

 

しかし、バブルの反動で硬直的になってしまった労働市場を労働者側が黙認し続け、”お上”が言わないと動かない、変われないというところまで来てしまった。

 

日本がイギリスの真似をして、ストを多発すべきだとは思わない。だが、今後の賃上げを巡る労働争議の中で、ストという交渉カードを使える状態で手に持っておくことは必要だと思うし、日本の高品質なサービスを支えている労働者にはその資格があるのではないかという点は主張しておきたい。

苦手なこと

最近、自分の中でこれは苦手だな…と思うあることに気づいた。というか、昔から薄々気がついてはいた。

 

それは、何かに執着したり没頭するということだ。

 

例えば、何かに興味が湧いて調べものをしたとして、ある程度納得ができたらそれまでだ。更に詳しく調べようとかいうモチベーションに乏しい。

 

10のうち8を習得するのは比較的よくできる方だと思う。しかし、残りの2に没頭してチャレンジする意欲がとんと弱いのだ。

 

そして、重要なことに、あらゆる物事の真髄はその残り2にどれだけ執着できるかにかかっている。

 

スポーツ選手の逸話で、朝から晩まで、食事や睡眠の時間も惜しんで何かに熱中するような話をよく聞く。そういった爆発力というか、没頭力というようなものを発揮している人は本当にすごいと思うし尊敬する。

 

 

近頃は今年のノーベル賞受賞者が発表されていっている。こうしたトップオブトップの人たちは例外なく、没頭する何かを見つけられた人たちなのだろうか。

 

もしそうだとすると、僕は彼らが羨ましい。ノーベル賞という最高の栄誉に輝いたことにではなく、彼らに自分が没頭できる大好きなことがあったこと、さらにそれが世界中の人にとっても価値のあることだったという幸運が羨ましいのだ。

 

 

僕が今やっている博士課程というのは3年間を1つの研究にささげるということで、これまでの人生である意味最も何かに執着する課程ではないかと思う。

 

自腹を切ってまで自分の苦手な部分に3年間向き合い続けるとは、ドMの極致と言えよう。

 

しかし、長いノーベル賞の歴史のことだ。きっと受賞者の中には1人くらい、あまり情熱がなかった研究が評価された人もいるだろう。そんな受賞者が、実はあんまりこの研究は好きじゃなくって…と赤裸々な告白を今にも語っているかもしれない。いや、居てほしい。それによって勇気づけられる研究者はきっと僕だけではないだろうから。

官僚から社会人博士への道 vol.14 ~論文を出せ。話はそれからだ。と指導教官は言った~

この記事は官僚である筆者が自主休職して社会人博士を目指す様子をお届けする雑記帳である。

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ooiebi.hatenablog.jp

 

先日、イギリスの博士課程では最初の論文を書き上げたので、あるジャーナルに投稿した。今回の論文はいわゆるシステマチックレビューというもので、お題と論文検索システムへのアクセスさえあれば書けるものだ。(といっても執筆には半年以上かかったが…)

 

そんな論文を8月中頃に投稿し、当分は返ってこないだろうとのほほんとしていたら、なんと9月28日にさっそく査読結果が返ってきて驚いた。

 

査読論文を投稿したのは今回で3本目だが、今回が一番格(インパクトファクター)が高くてそこそこ有名なジャーナルだった。なので、正直もっと時間がかかるのかと油断していた。

 

しかも、4人も査読者が付いていて再度驚いた。4人のうち2人は好意的、残る2人は否定的な受け止めで、結構骨のあるコメントをしてくれていて、判定はメジャーリビジョン(大幅な修正求む)だった。

 

僕も先生も、まずはダメ元で、と考えていた雑誌だったので、先生からは

「ラッキーだね。しっかり修正がんばりな!」

との励ましをいただいた。

 

 

話はかわるが、論文のお話をもう1つ。

 

さかのぼること、今年の1月。

 

年末年始でヒマをもてあましていた当時、かつての役所の仲間に声をかけて、こちらは日本の学会誌に論文を投稿した。内容は国際的な政策動向と日本への影響を論じたものだったので、情報の鮮度もそれなりに重視していた。

 

しかし、期待とは裏腹に、投稿してから1回目の査読が返ってくるまでに5か月以上もかかったのにまずガッカリした。

 

これは編集部が査読者を見つけるのに3か月ほどかかったのが要因だった。確かに、英語とは違って日本語の論文は日本人しか査読ができないし、同じ専門分野をカバーしている人となればなおさら分母は少なくなってくる。

 

更に悪いのは、今回の査読者の1人がやけに辛辣だったことだった。その方は

「●●について論じると書いているのに、全く論じられていない。」

という理由で原稿をリジェクト(不受理)してきたのだが、こちらの提出した原稿には●●なんて一言も書いていなかった。何か別の原稿と混同しているのではないかとも思った。

 

他にも、

「100~200行目までが意味不明」

といった直しづらいふわっとした批判コメントが続く(100~200行目って広すぎだろ)。

 

あまりに生産性の低いやりとりだったので、よっぽど投稿先を変更してやろうかとも思った。ただ、僕らの論文は知り合いが組んだ学会誌特集号の1記事になる予定だったこともあり、思いとどまった。

 

すったもんだで結果的にリジェクトにはならなかったが、学会誌への掲載は来年3月となってしまった。論文のテーマであった国際動向は昨年12月の出来事だったので、公表される頃にはすでに1年以上が経過しており、情報の価値は相当に落ちてしまった。

 

 

これらの経験を踏まえ、個人的には国内誌に論文を投稿するのはよほどのことがない限りはもうやめようと思った。

 

そもそも僕が今回国内誌に出したのは、国際会議で決まった重要な事柄やその影響を国内の政策決定者にかみ砕いて伝えたい、という思いがあってのことだった。

 

日本人に読んでもらいたいから日本語で出した方がいい、という思いがあったので、今もその判断自体は後悔はしていない。

 

ただ、国内誌はそもそも読者人口がマックスでも1億人そこらしかいないので国際誌に比べて圧倒的に読者が少ないという欠点がある。また、今回のように、査読ができる人材プールが乏しいのであれば、査読を通じて研究の質を高めるという恩恵もあまり期待できない。

 

目に見える実績が求められる研究職の方であれば、(国内誌であろうが査読は査読!)という割り切りもできるだろうが、僕のように研究で食っていく予定がない人間にはそういう実績もあまり関係がない。

 

 

それと、公表のしかたも慎重に考えるべきだという学びを得た。

 

今回のようにスピード感を重視するのであれば、例えば、論文ではなくウェブ記事にすることだってできた。相談すれば役所のウェブサイトに載せてもらうこともできただろう(内容の自由度は下がるかもしれないが)。

 

また、査読論文にするにしても、出版前にプレプリントサーバーに載せるという手もあっただろう。日本にもJxivというのが少しずつ普及しているらしい。SEO的にどうなんだろう、という心配もないではないが、少なくとも公表はできるはずだ。

 

 

以上、今回初めて国内誌に出してみて学ぶところも多かったので備忘も兼ねて書き残しておいた。

チャンピオンズリーグが開幕した話

先日、サッカーのヨーロッパチャンピオンズリーグが開幕した。

 

イギリスに移り住むまでは、正直なところサッカーの大事な大会だというくらいの認識しかなかったし、ましてやどこのチームが出るかなんて気にもしていなかった。

 

そんな僕が、いまやグループステージから熱心に試合結果を追っかけて一喜一憂している。

 

そうなった理由も薄々ながら気づいている。

 

ヨーロッパという慣れない環境に移り住んで、当初はあれをやってやろう、これを頑張ろう、と期するものがあったのがうまくいかなかったり、頑張り切れずにうじうじとしている部分が自分にはある。

 

そんなもやもやした自分の境遇や気持ちを、日本人サッカー選手たちに投影しているのだろうと思う。

 

三苫であれ冨安であれ鎌田であれ、(当然僕とはまったく違う次元、分野ではあるが)きっと何かしらの目標があって、それに対してうまくいかないことが日常的にあるはずだ。

 

しかも、彼らの土俵はシンプルなだけに残酷だ。自らの肉体や技術すべてをつぎ込んで、自分を認めていないかもしれない同僚ともコミュニケーションして、ライバルたちと戦っている。

 

そういうところが純粋にすごいことだと思うし、月並みな表現だが、彼らの活躍に勇気をもらえる。だからヨーロッパに来ている選手は全員応援してしまうし、一喜一憂して結果を追っているのだと思う。

 

あと、サッカーを見始めて気づいたが、競技としてもサッカーはめちゃくちゃ面白い。(既にファンの方々にとっては今更すぎて片腹痛いだろうが。)

 

特に魅力的なのは、弱小対強豪であっても、11人vs11人のかみ合わせによっては勝負がひっくり返ることがあるところだ。W杯での日本対ドイツや対スペインのように、多少の実力差であればフタを開けてみるまで分からない。

 

だから、イギリス人が土日はこぞってパブでサッカー(フットボールと言うべきか)に熱狂するのも分かってきた。

 

明日は土曜日。僕もビールを買って応援しようと思う。

漫画の感想文って難しいよね。まだ完結してないやつが特に。

漫画がとても好きで感想文を書きたいけど、普通の本よりも難しい気がしてなかなか筆が進まない。

 

書きたいのに書けないもんだから、観念して、書けないということを書くことにした。

 

 

字だけの本と漫画とは何が違うんだろうと考えてみる。

 

漫画には画もあるし、セリフもあるし、コマ割りもあるし、効果音もある。色々語りたいことが多すぎるからか?それもあるかもしれない。

 

だけど一番は漫画が平気で数十巻とかいくからじゃないかと思う。

 

小説なんかはだいたい長くても2、3巻で完結するから、全部読んだか全く読んでいないかどちらかの場合がほとんどだろう。しかし、漫画は途中までは読んでいるという人が多い。自分も結構そう。というか、連載中の作品はほぼそうだ。

 

それで、最後まで読んでなくても感想くらい書けばいい、と言われればそれまでなのだが、読者の方がその漫画を何巻まで読んでいる前提で書けばいいのかに戸惑ってしまう。

 

 

その意味では、どこまで読んだかあまり関係ない一話完結モノであれば書けるかもしれない。

 

ブラックジャック』とか『蟲師』とか『ゴルゴ13』とか。

 

あとは、『ばらかもん』や『ひらやすみ』のような日常物もまあある程度はネタバレなく感想を書けるだろう。

 

短い巻数で完結するシリーズも良さそうだけど、どこからが短いとするのかは議論がありそうだ。

 

寄生獣』が10巻だったが、10はちょっと長いか。

 

『ピンポン』とか『プラネテス』は5巻以内だし短いと言っても過言ではなさそう。けど、この2作品って読んだときの体感時間がかなり違う気がするんだよな。

 

刃牙みたいに100巻超えてても飲み物のように読めるのもあるし、不思議だ。

【深掘り】公務員として働く僕が海外でPhDを取ることにした理由

筆者は国家公務員、いわゆる官僚として働いてきたが、ふと思い立って休職し、イギリスで博士号(PhD)を取ることにした。

 

休職中はお給料はもちろん出ないし、慣れ親しんだ生活を捨てることにもなる。「なんでわざわざ?どんな得があるの??」と言う人も周りには多かった。

 

今回は公務員として働いていた筆者が海外でPhDを取ることにした理由を深掘りする。

 

1.PhDを取ることにした理由

今回のテーマは「PhD」×「海外」というふたつの要素があるので、分けて理由を説明したい。

 

まずは「PhD」でなければいけなかった理由から。

 

1つは、筆者が元々修士号をとってから社会人になったのが大きく関係している。

 

修士課程は授業+修論という感じで、プロセス自体は海外でも日本とさほど変わらない。過去に取った修士号との違いを作るには、自分が学んだことのない専門分野に進む必要があった。

 

一方で、博士号を取るためにはより高度な研究能力と成果が求められるため、修士課程とは異なるスキルが必要になる。特に大きな違いは、誰かから教わるのではなく、自分の力で課題を見出して答えを探すというスタンスの差である。

 

どちらも新しい学びがあるのは間違いないが、自分にとっては未知の博士号に3年かけて挑戦した方が成長できる。そう判断したのが第一の理由である。

 

もう1つの理由は、卒業後のキャリア形成において博士号があった方が有利だと考えたためである。

 

筆者は将来、国際機関か海外の企業で働くことも視野に入れている。海外では就職において日本よりもPhDが高く評価される。また、国際機関ではフィールド経験が重視される。自分のように、テーマによっては研究活動を通じて途上国でのフィールド経験を積むことができるのも博士課程の強みだ。

 

2.海外で取ることにした理由

お次は「海外」でなければいけなかった理由に触れたい。

 

当然ながら、博士号は日本の大学でも取得できる。母国語で博士論文が書けるし、学費も安いので、今流行りのコスパで言えば日本で博士号を取った方が圧倒的にお得ではあるだろう。

 

しかし、あえて海外でのPhDに挑戦した理由の1つは、英語力を付けたかったためだ。

 

筆者は、将来のキャリアの選択肢を広げるためには、英語力が不可欠だと考えている(注:すべての日本人にとってという意味ではなく、あくまで筆者のキャリアパスにとって)。

 

国家公務員という職種に限っても、純粋に日本語だけを使って日本のことだけを考えていれば済むような仕事はこの先どんどん減っていくだろうと考えている。仕事の対象となるのが国というかたまりである以上、比較対象や同業他社は常によその国なわけだ。

 

また、既に述べたように筆者は国際機関や海外企業も未来のキャリアの可能性として考えている。その際、当然ながら英語力は欠かせないし、博士課程を英語で修了したという経歴は一定の語学スキルの証明にもなる。

 

「海外」でPhDをやることにしたもう1つの理由は、アホみたいではあるが、海外で暮らしてみたいな~という漠然とした憧れである。後付けで正当化するなら、異なる文化や思想の中に身を置くという経験をしたかったとも言えるだろう。

 

日本の中で暮らしていると、ほとんどの人は日本生まれ日本育ちで、似たような文化的背景を共有している。そのため、自分たちが異文化圏の人たちから見たらどう映るのかを想像するのは簡単ではない。均質な文化があるいは外国人にとって悪しき慣習を生んでいるかもしれない。それを判断できるようになるためにも、比較対象となるような他国の文化にどっぷり浸ってみたかったのだ。

 

3.おわりに

以上が僕が海外でPhDを取ることにした理由である。

 

ちなみに僕はこうした動機や損得勘定がすべての人に当てはまるとはさらさら思ってはいない。また、博士課程は研究漬けの日々であるため、いかに損得計算上はプラスであっても向かない人にはまったく向かないとも思う。

 

しかし、僕と似たようなキャリア形成を目指している人にとって、ここでの動機の深掘りが少しでもお役に立てば、そして新しいチャレンジへの後押しになれば幸いである。