おーい、えび。

えびのたわごと

イギリス留学をしてから日本の大学院教育に対する見方が変わったという話

筆者は官僚を一時休職してイギリスの大学院に博士課程で留学している。その中で修士の学生が受ける授業にも少し参加してみて、日本の大学院教育とはかなり多くの違いがあって興味深かったので今回記事にした。

 

僕が所属したことがあるのは日本もイギリスもどちらも1つの大学ずつなので、n=1の極めて局所的な経験に過ぎないが、どちらも一応その国の中でのランクは同じようなものなので比較としては面白いと思う。

 

もくじ

 

事実関係

大学の機能(教育・研究・社会貢献)

まず前提として、日英どちらの大学も教育研究社会貢献という3つの機能を持っている。この3つのうち、日本とイギリスで最も違うなと感じたのは「教育」だ。

 

イギリスの大学に比べて日本の大学は教育サービスの質が低いと言わざるを得なかった。ただし、その分学費はイギリスの方が日本の2倍(留学生に至っては4倍!)ほど高いので、教育の質はある程度学費に比例しているという考え方もできる。

 

大学院で教える内容の質(と卒業研究の質)

具体的にどのような点で教育内容の質に違いがあるのかを説明していきたい。まず、一連の講義(10コマ程度)に関わる先生の数は、日本だとせいぜい数人で回しているが、イギリスはほぼすべての授業で違う先生が登場する。おそらくその授業のトピック毎に最も造詣が深い先生が教壇に立っているのではないかと思われる。海外の機関などからその分野の著名な先生がオンラインで話をすることも珍しくない。

 

授業の進め方としては、その分野の大まかなアウトラインや基礎知識を紹介し、そののちに最新の研究を具体例として挙げながら理解を深めていく、というのが一般的な流れと言える。日本では先生によって自分の好きな分野を深堀りしすぎていて分野の全体像やその先生の研究の位置づけがよく分からないままに終わるということがよくあった。そういうことはイギリスでは1度もなかったので、もしかすると授業の進め方もある程度統一されているのかもしれない。

 

また、日本では研究を読み解くのに不可欠な統計知識有意水準、信頼区間など)ですら十分に教えない。僕の(日本の)大学では確率統計という授業が必修だったが、ひたすらに統計の数学的な証明を教えられて、研究という実務でそれがどう役立つのかは一切具体例がないままに授業が進むという苦行があった。(日本の大卒でまともに有意差や標準偏差の意味を説明できる人は果たしてどれくらいいるのだろうか…当時の僕は少なくともできなかった)

 

そして、これは日本の大学院ではほとんどなかったが、イギリスでは講義の後に5~6人の学生同士でのグループワークというのはほぼ必ずある。講義で学んだ内容について演習問題が課せられて、お題は研究でやるようなデータ解析系のものもあれば、行政の現場で実際にお目にかかるような課題をあれこれ相談しながら解決策を探すタイプのものもある。こうした作業を2~3時間ほど行い、各班から発表しあいながらより深い理解を目指す。

 

正直なところ、僕は留学する前は世界の大学ランキングに懐疑的な見方をしていた。どうせ英語圏の大学が有利で、日本の大学は国際交流のインフラが整っていないから低く出ているんだろう、という程度に見ていた。しかし、大学ランキングで最上位に来るような大学の教育を実際に体験してみると、日本の大学院教育がいかに力を入れていないかがはっきりと感じられてしまった。

 

生徒の幅、モチベーション

日本の大学院にいる学生の年齢幅は非常に狭く、かなり均質的な集団と言える。大学を卒業した人がそのまま進学するか他大学から編入してくるのが一般的だと思われ、実際にOECD諸国よりも修士の平均年齢はかなり低いらしい。

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イギリスの大学院では社会人として働いた経験がある人、現在も働きながらパートタイムで通っている人などが体感的に半分くらいを占めており、年齢層は様々だ。そもそも年齢を気にするような文化もないので、お互い対等に接しあう。そして、留学生がとても多いことから、国籍もばらばら、先進国、途上国出身がまんべんなくいた。

 

学びに対するモチベーションは少なくとも僕の周囲は日本でもイギリスでも同じくらい高かった。が、イギリスの方が大学院に来た目的意識が明確な人が多い。社会人からわざわざ戻ってきている人が多いのだから当然と言えば当然だが、今後のキャリアのために必要な知識を身に付けるために逆算して修士を取りに来たという学生は圧倒的にイギリスの方が多い気がする。

 

大学教育について考えたこと

なぜ大学に行くのか(大学卒は果たして高卒より上なのか)

大学院を考える前に、まず日本における大学の意義を考えたい。大学全入時代と言われるこのご時世、ランクにこだわらずお金さえ出せば大学には入れてしまう。しかし、日本の大学教育を受けたとして、卒業する頃には入学時よりも確実に能力面で向上していると言えるのだろうか。平たく言えば、大卒は本当に高卒よりも能力的に価値が高い人材になっているのだろうか

 

確かに大学にいる4年間、バイトやらサークル活動やらで社会のことをより深く知るだろうし、高校よりも自由度の高い環境に置かれることで自ら考えて行動する経験も積むだろう。しかし、それは大学という共通のインフラであったり、18歳以上=成人という社会的身分があることで得られている副次的作用であって、大学教育でしか得られない高度な知識や能力とははっきり言って無関係である。

 

単に大学に通った方が良さそう、それ以外の選択肢がない、といった理由ではなくて、こういう分野でこういう知識を身につけたいからという理由で大学を選ぶ人が増えてくれば、結果として大学での学習効果も高まるだろうし、その延長線上として次のステップに修士や博士を選ぶ人も増えてくるのではないだろうかと思う。(現状、かなり難しいとも思うが。)

 

僕が高校生のときは、何のために大学に行くのか、大学とは具体的にどういった能力を獲得するために通う場所なのかを教えられたことは一度もなかった。大学とはどういうことを目的とした機関で、どの学部では何を教えてくれて、どういう指標を見れば良し悪しを評価できるのか、つまるところ大学とは何かということをもう少し高校生に教えてあげる機会があっても良いのではないだろうか。

 

大学院の教育機能を高めることは研究機能にも直結する

1点目で学生側の視点から考えたが、もう1つは指導者側からの視点だ。

 

特に大学院に当てはまることだが、僕がいた日本の大学では教授や准教授は研究に重きを置いて、教育にはあまり時間をかけたがらない傾向が強かった。その結果、修士論文を書いた30数名の修士学生うち、在学中に査読論文を出したのは数名しかいなかった。

 

これはかなりもったいないと思う。というのも、イギリスの大学院と比較しても、日本の修士学生のレベルや卒業研究の内容自体はまったく劣るものではなかったからだ。むしろ修士課程が1年しかないイギリスよりも2年ある日本の方がデータの蓄積や実験数という意味では大幅に勝っているだろう。

 

研究デザインの段階から適切な指導が入り、かつ投稿論文に仕上げるという目標設定を指導者側で示せれば、こうした修士論文の中に眠っている知見のいくつかは査読論文として世に出せたかもしれない。それはひとえに大学の研究業績にも繋がるし、学生としても将来博士課程に進むことになった場合のアピール材料として非常に有効だ。

 

当時は准教授が雑用じみた仕事をこなすほどの状況だったので、こうした教育環境を実現するにはまず人手の問題があるし、ということは財源の問題もある。昨今の高度人材育成の施策ではこうした基盤整備にも少しずつメスが入り始めているようなので、今後の変革を期待したい。