おーい、えび。

えびのたわごと

日本のメディアと内閣支持率について

岸田内閣への支持率が25%にまで下がったという報道があった。

岸田内閣支持率25% 政権発足以降で最低 毎日新聞世論調査 | 毎日新聞

 

僕の職業は国家公務員(官僚)なので、内閣総理大臣は民間企業で例えると親会社の社長に当たる。大臣はグループ会社の社長というところだ。

 

したがって、総理の支持率が下がったということは僕にとっては親会社のトップの立場が危うくなったという知らせだと言える。

 

 

僕は、内閣の支持率とはメディアによる減点政策の良しあしをウォッチしている支持層による加点・減点が内訳ではないかと思っている。ここで重要なのはメディアによる加点はないということだ。

 

僕が官僚として働き始めてから、総理大臣はこれまでに3人いた。安倍総理菅総理、そして岸田総理だ。

 

僕が霞が関のいくつかの省庁の友人らに聞いた中で一番評価が高かったのは例外なく菅総理だった。

 

所属している省庁が違うので評価の根拠となった事例は各人によって異なるが、共通しているのは、各省庁の所掌している事務において菅総理の後押しで物事がようやく前に進んだ、ということだった。

 

だが、ご承知のとおり菅政権は短命で終わった。新型コロナという前例のない感染症への対応ではワクチン一日100万回という目標を立てて接種を加速していったし、携帯料金の引き下げ、不妊治療への保険適用など、一般市民の生活の改善にも大きく貢献するような政策を推進していたにも関わらずだ。

 

当時、霞が関の中の人間としては「なぜ??」という思いが拭いきれず、よくニュースを見漁った記憶があるが、短命の理由として無派閥だからという政治の力学や、メディアへのアピール力の無さが原因だといった記事を散見した。

 

 

もし日本のメディアが、良いところは褒め、悪いところは批判する、加点と減点の両方を取り入れる報道姿勢であったなら菅政権ももう少し長命だったのではなかろうかと思う。

 

例えば、新型コロナの対応にしても、諸外国のメディアが日本を優良事例だと取り上げる一方で、国内ではそうした事実よりも、例えば欧米と比べたワクチン接種率の進み具合や都道府県内での感染者数の上げ下げなど、批判しやすい数字の方が盛んに取り上げられていた印象がある。

 

菅総理が、最も突破力がありそうな河野大臣をいち早くワクチン担当に据えて迅速に対策を進めていたことは少なくとも加点対象であったように思うが、そうしたことがメディアで前向きに評価されるようになったのは政権から退陣した後だった(政権在任時はむしろ「ワクチン、ワクチンと、馬鹿の一つ覚えで芸がない」といった類の報道すらあった)。

 

コロナの例に限らず、日本のメディアは政治家に対する批判はあれど、その功績を扱うのは本当に稀なことだ。なぜかと言えば、それは消費者である大衆が悪口を望んでいるからだし、誰かを批判することで日常の鬱憤のはけ口としたいからだ。

 

だから一概にメディアが悪いとは言えないし、偉そうなことを言っている自分だって、ワイドショーで誰かの批判をただ何となく見続けてきたのだからその現象の一部なのだ。

 

 

しかし、個人レベルでの情報の消費行動と、ある種の公共装置であるメディア企業(特にテレビ)とでは、その責任に差があるのではないかと思う。

 

大衆に迎合して目先の視聴率を稼ぐというのはその企業が行っている一つの経営判断なのであって、そうでない判断、例えば多少のつまらなさがあったとしても政権の褒めるべき点は褒めるという経営判断も行いうるのである。

 

昨今、政治のニュースとして流れるのは、議員の失言、汚職、職務怠慢、国会での喧嘩じみた答弁など、超短期的に消費されるショーとしての一面ばかりではないだろうか。

 

そうした面も確かに政治の一部ではあるが、本質ではない。本質ではない部分ばかりがお茶の間に届くようになれば、政治に対する期待値は下がることはあっても上がることはない。政治への期待感がないという世論を形成しているのはメディアの在り方にもよるところがあるのではないか。

 

そうした環境下にある政治家の立場に立ってみると、メディアに露出しやすいのは相手を論破するようなやり取りや、派手な言説、誰かを敵とみなした"鬼退治"的な構図を見せるのが有効と考えるだろう。となると、実績で語る仕事人タイプでは食っていけないので、パフォーマンス重視、野党であれば与党の、与党であれば支持層の敵に対する批判を声高に叫ぶことができる人が出世していくことになる。

 

 

政権支持率の話に戻ると、現在の減点方式のメディア環境においては、誰かを常に批判するトランプ氏のようなやり方も考えられなくはないが、日本では過激すぎて受け入れられないと思われる。そこで、政権トップが取る戦略は「なるべく失点をしない」道となる。これが菅総理や今の岸田総理の基本スタンスであるように思う。

 

安倍総理は良くも悪くも批判されることが多い政治家だったが、経済界との強固なつながりや政治力により、メディア(一般大衆)の人気に頼らない政権維持の道を見出した点で過去の総理大臣とは大きく違ったのではないだろうか。

 

 

だが、失敗ばかりを取り上げて批判し、成功については口を閉ざす空気感の世の中においては政治、ひいては民主主義は向上していかないと思う。

 

僕は、政治家とは極論すると意思決定をしてナンボの商売だと思っている。役人が理詰めで議論して答えが出なかった問題に対して、正解であれ間違いであれ結論を出すからこそ民意を代表している政治家の存在意義があるのだ。

 

ここでの意思決定とは、AとBという、どちらも満点ではない一長一短の選択肢のうちどちらかを選び取る作業である。なので、常に批判なく100点を出し続けられる政治家など理論上存在しない。

 

そうした性質を内包した政治家という職業に対して減点主義でしか評価ができないのであれば、批判のみに依存する収益構造のメディアに民主主義を託すのは構造的な欠陥だと言わざるを得ない。

 

政治家を批判することがダメなのではなく、悪いものは悪い、良いものは良いと評価できないことが問題なのだ。

 

ここ数年の報道を見ていてそんなことを感じている。